こんな時だからこそお家から出なくても、学べる輸入住宅(2✕4住宅)のお話をさせて頂きます。
生涯で一番高いお買い物のひとつといわれている住宅や、住宅会社を選ぶとき、あれ幾ら、これ幾らも大切かと思いますが「自宅にいる時間が増えた分」たまには立ち止まって、住宅展示場や建築会社も知らない秘密を覗いてみませんか?
軸組み工法と在来工法は別物です
私が30年以上の歳月を掛けて取得してきた日本名2✕4・ツーバイフォー住宅、正式には(枠組壁工法・わくぐみかべこうほう)といいます。
それに対して日本には「在来工法」又は「在来軸組み工法」などという工法があります。
古来より世界中の木造建築という建物は、主に柱に代表される軸・じく(いわゆる棒状の材木)を組み合わせて「軸組み・じくぐみ」という手法で住まいを造ってきました。
現存する世界最古の木造建築とされる「法隆寺」もこの軸組みという手法で造られています。しかも地震を吸収(免震)するという最新技術が当時既に導入されていました。この原理は最新科学の手によってあの東京スカイツリーに導入されています。
しかしながら、私たちが日常建築の工法の一つとして「在来工法」と言う言葉を耳にしますが、この法隆寺を造った軸組み工法と現代の「在来工法」とは似て非なるものなのです。
「2✕4」工法(2✕6等木造かべ組工法全般を指します)と「在来工法」のどちらが良いと悪いとかと言うお話をしたいのでは無く、35年以上に亘り建築に携わってきた一人としてそれぞれの簡単な成り立ちをご説明したいと思います。
「在来工法」という言葉
1945年8月終戦を迎えた我が国の兵隊さん達が多数帰国しました。又国内においても戦争にかり出された一般国民を含め多くの日本人が焼け野原となった郷土を見て唖然としました。
お国のために戦いながらも、住むところを無くした国民は立ち上がり国を相手に住まいを造れと抗議活動を起こしたのです。
銃後の女性と言われた、戦争を陰で支えていた主婦達が立ち上がり「割烹着(かっぽうぎ)」を着て身の丈もあるほどの「おしゃもじ」に「家よこせ」と書いて国会議事堂めがけて抗議を行いました。
これは後に「家よこせ運動」と呼ばれ現在の国が行う住宅ローンのルーツともなるものです。
この時、軸組み工法のような伝統的な住まい造りではとても供給が間に合わない為に、釘や金物を多用した「在来工法」という名の住宅が生み出されたのです。
更には、そのローンの併催期間の妥当性について某大学の教授が「バラック(廃材などを集めて造った簡易的な建物)でも25年はもつ、と言ったことから国からの住宅金融機関である「住宅金融公庫」は当初木造住宅の最長返済期間を25年説いたという有名な逸話があります。(現在はフラット35等と呼ばれ最長35年)
「在来工法」と聞くと何やら数百年も前から有る、我が国の伝統工法そのもののように思われる方がいるかも知れませんが姿と形は似ているものの工法の歴史は60年~程です。この間在来工法も地震や台風など自然災害等の洗礼を受けたりして、より丈夫で安全な構造へと進化してきました。
最近では「在来軸組み工法」と「2×4工法」の良いとこ取りで「ハイブリッド在来工法」なる言葉もあります。
建築会社によっては、更に元々あった伝統工法の仕上げなども取り入れられ、より磨きが掛かってきた感もあります。
しかし、この「伝統工法」、あの「法隆寺を造ったスゴ技」ですが何とこれも日本独自のものでは無く、当時の渡来人が伝えた輸入建築です。弥生縄文時代まで遡ってもおそらく日本古来の建築は「アイヌ文化」または「琉球文化」くらいにしか無いともいわれています…日本建築の歴史は謎が多く深いです。
2×4工法とは
一方2✕4(ツーバイフォー)工法というのは何者なのか?
一説にはその原理はイギリスで発案され他ともいわれていますが、コロンブスの「アメリカ大陸の発見以降」幾度かの節目を迎え急拡大してゆきます。
コロンブスのアメリカ大陸の発見直後は、後に「インディアン」と呼ばれる先住民族しかいませんでした。
その後16世紀にイギリスに植民地化され様々な変遷を得て現在に至っています。
その中、人が生きることに必要な3代要素(衣・食・住)の内、一番大がかりなものが住まい造りです。
家造りのための太い柱を馬車やそりで引いてゆくのは大変なことから、その材木の断面が2インチ✕4インチ(5.08㎝✕10.16㎝⇒1インチ=2.54㎝)を主要な柱とした軸とした新しい規格の基にそれまでに見たことのない細い柱で住宅を造る工法が考えられました。
しばしの時を経て、小麦がアメリカ中部の土壌に適合することがわかり、生産が拡大するこになった。小麦の国内生産が軌道にのったことから、小麦の集積所が必要であった。後のシカゴ市長のウィリアム・オグデンは「シカゴ」をその集積所とするべく短期間に住宅を大量に建設することを計画しました。
さてそのシカゴは今でこそ人工はニューヨーク、ロサンゼルスに次アメリカ国内第3位 2.695.598人(2010.4/1国勢調査)といわれていますが、1830年当初人口は350人。1832年当時は、十数個の丸太小屋と雑貨屋が一軒、そして飲み屋が二軒だけだったといわれています。
細い柱を上手に組み合わせ耐久力のある合理的な設計思想の住宅こそが当時バルーン工法と呼ばれ急拡大してゆくシカゴの発展を支える原動力の一つになりました、ウィリアム・オグデンは小麦の集積所建設の尽力し、 350ばかりの町並みに1年足らずで400戸もの住宅を建設してみせました。
地元や周辺の職人は当初「あんな針金みたいな細い柱」「バルーン(風船の様なきゃしゃな家)と批判的でしたが周辺の職人が皆、この2✕4工法の家つくりに参加してしまい、自分だけが取り残される事となりました。
結果「バルーンのように美しい家」と賞賛するようになり仕事が回ってきたという笑えない話もありました。
2✕4工法はそれまでも物置や簡易的な建物には使われましたが、数々の改良を施し一年足らずという短期間これほどの数を住居として施工したという実例が無かったために「バルーン工法」「シカゴ工法」などとも呼ばれるようになりました。
この頃にはまだベニヤ板が発明されていなかったため、在来工法でいう「通し柱」(1階床から2階天井まで一本でつながっている長い柱・通常家一軒につき3本以上ある)や壁が地震などでゆがまないようにする為の斜めの突っ張り「筋交い」(1階の箱と2階の箱がずれないようにするためが張る)がありました。
柱が細いといっても荷重の掛かる所には幾本もの材木を重ねて使用している為に通常の軸組み工法と遜色のない強度がありました。
それまではティンバー(10インチ:25.4㎝)の角材を使っていたものが規格化された2インチ✕4インチの軽量な木材に取って代わったことで、一本一本の材木が細くて取り回しが良く、規格化されているので作業効率が良く大幅な工期が短縮できたのです。
1830~1840年代といえば今から200年近くも昔の事です。この頃「アメリカに於ける2×4工法は初期段階の完成」を見たのです。
「レヴィットタウン」までの道のり
1945年8月、日本では終戦となったその翌月には応急簡易住宅30万戸の建設が計画されたが、これには軍需工場なども参加しました
一方、アメリカでは戦火こそ受けなかったものの、戦地から帰ってくる復員兵の数が半端なく多く、これには政府も頭を悩めていた。
そんな折、「ウィリアム・レヴィット」建設会社経営者大衆自動車T型フォードの生産方式にならい、その後の5年間に17.750戸の住宅6万人分をニュ―ヨーク州ロングアイランドに土地の開発から材木の伐採までを自社開発し、驚異的なスピードで分譲地をつくり販売した。何と週に250戸平均の建設である。
何でこんなことが出来たのかといえば、第二次世界単線終戦間際、日本でも物資が不足してお寺の釣り鐘までも没取されて武器弾薬にかり出されたという事がありましたが、同様にアメリカでも鉄材が不足してきた為、国家威信をかけて鉄板の代わりとなる木材(ベニヤ板)を開発しました。
この板は耐水性も有りボートや、飛行機のプロペラ、スキー、等様々な用途に加工されて使用されてゆきました。しかし、戦争が終わりその用途について「ウイリアム・レヴィット」は住宅を工場で作るのでは無く、現場を工場のように見立て作業を分解し効率性を高めました。中でも特筆するべきものの一つが材料の基本寸法に合わせて住宅を作るということで、国の威信をかけて開発されたベニヤ板の基本寸法を合わせて、住宅を造るということでした。
シカゴで始まった軸組み2×4工法はここに来て、通し柱も筋交いも無い「枠組み壁工法」として更に注目をされるようになったのです。
この時から床面、壁面などその主要構構造を軸一本一本では無く壁全体、面と面が一体となってサイコロ状のモノコックボディとなりより強固なものに進化するのです。これ以降の「2✕4工法」を「プラットホーム工法」ともいいます。
「ウイリアム・レヴィット」が手がけたこの街は「レヴィット・タウン」と呼ばれ今でも立派に存在しています。
日本国内で主戦時に造られたあの、プレハブが一棟も現存していないのに比べ、その価値は数十倍にもなっていて観光名所のようにもなっています。
また日本の当時造られた、「在来工法」と呼ばれた住宅は負の財産にはなっても、資産としての価値を持った住宅は数少ないです。
その昔住まいを造るということは、身上(しんしょう:財産)をつくる事と同義語でした「在来工法」「2×4工法」の関係なく身上となる建物は出来るのでしょうか?
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